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さよの日記。ビーガンご飯、断食、クリアリングなど

サヨノモリ

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日記/120116月 悪は滅ぶのか。

(ツイッターで書いた日記を一部加筆修正して転載)


 悪よ滅びよだなんて、自分だけは完全に清廉潔白な聖人だと思っていなければ言えない。
 自分にとって悪価値であるものを含むすべてのものは、自分のために存在してくれている。
 すべて自分が作り出した世界。どんなものも自分自身を映す鏡だ。



 誰かにとって自分が悪だとすれば、滅びるべきなのか?



 古今東西悪の栄えたためしなし、とか。
 悪は必ず滅びる、とか。
 自らを善や正義の立場に置いて人々が言う。


「苦手な上司がいた。自分の心の成長とともにその上司に感謝できるようになったとき、相手は目の前からいなくなった。」といった経験を積み重ねて、すべてに感謝できる自身へと近づいていくとき、それら過程で出会った「悪」は必要不可欠で、自らが望んで得た存在であったと気づく。


 自分が必要としているものだけが、もたらされている。
 自らが悪と断じるそれは、自分の心そのものである。
 憎むのでなく、感謝して、その「悪」を必要としない人間であり宇宙である自己へと変革していくのである。


 悪が滅びるとき、それは自分の(あるいはある集団の、あるいは人類の)心がもはや必要としなくなったとき、「悪」の役目を果たしたものがその使命を終え、静かに宇宙の空へと還っていくときだ。
 

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日記/120114土 志向でなく指向を知る。

(ツイッターで書いた日記を一部加筆修正して転載)


 志向じゃないんだよね。大事なのは指向。
 食品の大量廃棄はいやだな〜と考える人が「食べ物を大事にしたい。しよう。」と思っていることは志向。しかしその人がコンビニへ行ってお弁当を買うとき、社会は食品大量廃棄へとより向かうわけである、というこちらが指向。



 自分が何を志向しているかじゃなく何を指向しているかを知らなければいけない。
 言っていることとやっていることが違っているとか、何かを望んでいるつもりで反対の結果を招くことをしていることがある。


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日記/120111水 水のように

(ツイッターで書いた日記を一部加筆修正して転載)


 就職できない若者をどうするか、でなくて若者を就職させない社会をどうするか、じゃないのかね( ꒪﹃ ꒪)



「1月2日に各地でセシウムの線量が上がったことについての理由を推測、また汚染された農産物の輸出について言及、ODAという名のもとで汚染された農産物を広げようとしている点を批判」
/ “1月9日 2日のセシウム線量急上昇の理由・汚染農産物のODA 小出裕章(MBS)”
 http://hiroakikoide.wordpress.com/2012/01/11/tanemaki-jan10/


 小出先生。いつもいつも、丁寧にわかりやすく教えてもらえてほんとありがたい。



 ゆるやかに流れる水のように、継続して学んでいきたいものだねぇ( ꒪﹃ ꒪)

 いっとき燃え上がる炎のような情熱もよい。しかし、今は悠久の流れのような自分にもなっていきたいなと思う。すっげぇ苦手なんであるよ〜継続。
 でも、10年本気で思えば叶うことを知っている。10年思い続けてやる。
 10年後には、継続のできる自分になっている。



 北海道がだいー好きなもんだから移住とか今まで考えたこともなかったんだけど、原発事故のあとで色々考えるようになって、もしもここを離れて行くならどこだろうな?と。
 やっぱどこでもいいってわけでもなくて、惹かれる惹かれないってあるよね。
 で、今のところ移住してみるのいいかもと思っているのは香川県か飯舘村。
 飯舘村は現在全村避難状態で除染モデル地域ということだけれど、さて今後どうなるのだろうかね。


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日記/120110火 子どもによい世界を残そうなんて思わない。

(ツイッターで書いた日記を一部加筆修正して転載)


 昨日相方と「アナログレコードが再び市民権を得ることはあるか」について話をして思ったことがある。世代が違えば求める世界の姿が違う。子どもによい世界を残そうという思いを持っているおとなたちがいるが、おとなの思うよい世界を子ども世代も同じように望むものなのか?



 子どもによい世界を残そうなんて思わない。子どもにとってのよい世界なんて私にはわからない。子どもにとってのよい世界は、子どもが好きに考えて、どんなものでも望んで自分の力でつかみ取ればいいんだ。私が子どもに向けてすることがあるとすれば、望むものは自分でつかみ取れ!と教育することのみ。



 私は自分が来世の自分に残したい世界を作るために生きる。



 こうすれば子どもたちが幸せなはずだから、なんていう押しつけはいらない。あんたのために頑張って生きる…とか迷惑だ。いいからまずは親自身が愚痴を言わないで幸せに生きてくれよ。


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日記/120109月 議論は戦いじゃなく、互いへの貢献

(ツイッターで書いた日記を一部加筆修正して転載)


 12月25日の辺境ラジオ、やっと聴いてる( ꒪﹃ ꒪)
 やばいこれまたやばいよ(((( ꒪﹃ ꒪))))



「異なる見解同士が非建設的に感情的に叩き合うとかって馬鹿げていると思う。異なるという事を尊重(もしくは放置)すれば良いのに。異なる物を叩かないで持論で説得力を持たせることができれば良いと思う。他方を叩かないと立証できない意見は僕は好きではありません。もちろん建設的な議論は必要です。」
 https://twitter.com/#!/shijimasayo/status/156193164359770112


 そもそもちゃんと「議論(互いの意見を述べて論じ合うこと)」ができている場合がそんなにあるかという( ꒪﹃ ꒪)
 相手を攻撃する心が微塵でもあればもうその時点で建設的な議論になることは望めない…


 議論は戦いじゃない。むしろ、議論する目的を果たすためには戦ってはいけないと承知している者同士でなければ成り立たない。


 もともと議論が有用な場合って相当限られていると思う。志向を同じくする者同士で協力してより利を増すことを目的とする場合など。
 たぶん、議論の存在価値は基本的に互いの利を求め合う者たちによる互いへの貢献、というところにある。


 利害が食い違っている者同士の議論(と言いながらの討論、もっと言えば喧嘩だったり)は、する価値がない場合が多い。相手に利をもたらすつもりのない者たちにとって有用なコミュニケーションは、まず議論しない道を行くこと、であると自分は思う。


 だって相手に利をもたらすつもりのない者同士が関わり合おうとする場合って、相手をどうにか思い通りにしたいってところが目的になって、取る手段は暴力で行き着く先は戦争なんだもの。
 そういう人たちがなるべく不幸にならずにすむためには、何よりもまず害し合わないことができる道を探って、非暴力を最大の目的とするコミュニケーションをすべきなんだ。



「みなさんも『それが何の役に立つのかわからないけれど、どうしてもやりたい、やっていると楽しい』ことをみつけてください」 / “困難な時代を生きる君たちへ (内田樹の研究室)”
 http://blog.tatsuru.com/2012/01/09_1228.php



 自分の心がやりたいことをやる、やりたくないことはやらない、これに尽きる( ꒪﹃ ꒪)クワッ


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